2012年05月18日 (金) | 編集 |
荒町商店街のちょうど中頃に、目を惹く鳥居&看板が有ります。
奥州仙臺七福神(おうしゅうせんだいしちふくじん)は、宮城県仙台市の7つの寺社からなる七福神の巡礼札所。
各寺社の七福神は江戸時代かそれ以前に遡ることが出来、各々信仰を集めていたようであるが、「奥州仙臺七福神」という名称は1983年(昭和58年)に設定された。(Wikipedia)
七福神というからには、7ヶ所有るのですよね、ヤッパシ
北から
①大黒天 喜伝山秀林寺(北山)②壽老尊 喜福山玄光庵(通町)
③えびす神 藤崎えびす神社(一番町、藤崎の屋上ぁぁー、あれかww)
④弁才天 天総山林香院(新寺)⑤毘沙門天 金光山満福寺(ココ荒町)
⑥布袋尊 南谷山福聚院(門前町)⑦福禄寿 医王山鉤取寺(鉤取)
仙台七福神めぐりのHPなんてのも有ります。(コチラ)
満福寺と毘沙門天(びしゃもんてん)の解説が有りました。
ワタシとしては記事を書くのに楽で良いです
ここの毘沙門堂には、文永年間(1264~75)に平泉の藤原秀衡が運慶につくらせたという毘沙門天が祀られています。
(補足)
藤原秀衡は平泉で栄華を誇った奥州藤原氏の北方の王者です。
源頼朝とは対立し、それもあって源義経をかくまった人物。
毘沙門像は藤原秀衡が運慶につくらせ、平泉に鎮座していたそうです。
その後、仙台に有った北目城の主、粟野国定が北目に遷しました。
さらにそれを北目城を落とした伊達政宗が仙台城下に遷したのだそうです。
いろいろと変遷を経た神さまです
仙台七福神の一つ、毘沙門天は多聞天ともよばれ四天王の一神だそうです。(神の中でも偉いみたいです)
忿怒の相を示し甲冑をつけ右手に宝棒をもち、左手に宝塔を捧げる武神で、子育ての神さまとしても知られているそうです。
憤怒の相で子育ての神様ですからね、やっぱし昔から子供は厳しくしつけないとダメだっつー事だったんすかね。ウチ失敗
・・・ともあれ、子育て日記的なブログ
を書いているワタシとしては是非御参り&紹介しておくべきでしょぅ
時代によってハヤリが有ったそうです。
この毘沙門堂は、寛永20年(1643年)に仙台藩第二代藩主 伊達忠宗が毘沙門天の鞘堂(さやどう)として造営したものとされています。
この近代的な本堂は平成4年(1992年)に再建されたもの。
毘沙門堂の横に小さなお堂が2つ、並んでいました。
手前が百八体毘沙門堂、奥が子安観音堂です。
百八体毘沙門堂にはミニサイズの毘沙門像が108体、お祀りして有るそうです。
子安観音堂には千体の観音像が整然と並んでいるとか。いずれも寅年の御開帳日にしかお目にかかれません。
お堂の脇に、建築業者の方がお昼寝していたので、このお堂には御参りしませんでした
金光山 満福寺 (真言宗)
『奥州仙台 七福神 毘沙門天王』
奥州仙臺七福神(おうしゅうせんだいしちふくじん)は、宮城県仙台市の7つの寺社からなる七福神の巡礼札所。
各寺社の七福神は江戸時代かそれ以前に遡ることが出来、各々信仰を集めていたようであるが、「奥州仙臺七福神」という名称は1983年(昭和58年)に設定された。(Wikipedia)
七福神というからには、7ヶ所有るのですよね、ヤッパシ


北から
①大黒天 喜伝山秀林寺(北山)②壽老尊 喜福山玄光庵(通町)
③えびす神 藤崎えびす神社(一番町、藤崎の屋上ぁぁー、あれかww)
④弁才天 天総山林香院(新寺)⑤毘沙門天 金光山満福寺(ココ荒町)
⑥布袋尊 南谷山福聚院(門前町)⑦福禄寿 医王山鉤取寺(鉤取)
仙台七福神めぐりのHPなんてのも有ります。(コチラ)
隣には宮城文化服装専門学校があります。
ドレメの学校とは違うのみたいです、種類は一緒ですが。
ドレメの学校とは違うのみたいです、種類は一緒ですが。

満福寺と毘沙門天(びしゃもんてん)の解説が有りました。
ワタシとしては記事を書くのに楽で良いです

ここの毘沙門堂には、文永年間(1264~75)に平泉の藤原秀衡が運慶につくらせたという毘沙門天が祀られています。
(補足)
藤原秀衡は平泉で栄華を誇った奥州藤原氏の北方の王者です。
源頼朝とは対立し、それもあって源義経をかくまった人物。
毘沙門像は藤原秀衡が運慶につくらせ、平泉に鎮座していたそうです。
その後、仙台に有った北目城の主、粟野国定が北目に遷しました。
さらにそれを北目城を落とした伊達政宗が仙台城下に遷したのだそうです。
いろいろと変遷を経た神さまです

仙台七福神の一つ、毘沙門天は多聞天ともよばれ四天王の一神だそうです。(神の中でも偉いみたいです)
忿怒の相を示し甲冑をつけ右手に宝棒をもち、左手に宝塔を捧げる武神で、子育ての神さまとしても知られているそうです。
憤怒の相で子育ての神様ですからね、やっぱし昔から子供は厳しくしつけないとダメだっつー事だったんすかね。ウチ失敗

・・・ともあれ、子育て日記的なブログ


石鳥居をくぐって入っていきますと、形の良い立派な松の木が有りました。
歴史を感じさせる、ワケ有りそうな不思議な松。
ゆっくり身の上話でも聞いてみたい感じです(笑)
歴史を感じさせる、ワケ有りそうな不思議な松。
ゆっくり身の上話でも聞いてみたい感じです(笑)
さらに入っていきますと、これまた歴史ロマンを漂わせる唐門が有ります。

屋根の下についている唐破風(からはふ)が、一般的には正面を向いているモンですが、ココのは横に付いています。


時代によってハヤリが有ったそうです。
唐門を入っていきますと、正面に毘沙門堂。参道脇にはこれまた立派な松の木が。

クロマツ。樹齢300年ですって。
元気そうな、立派な大樹ですが、これからも大事にしたいですね。
元気そうな、立派な大樹ですが、これからも大事にしたいですね。
この毘沙門堂は、寛永20年(1643年)に仙台藩第二代藩主 伊達忠宗が毘沙門天の鞘堂(さやどう)として造営したものとされています。
1904年(明治37年)の火災で、毘沙門天の表面が焼けてしまったそうです。
どんな具合なのか心配ですが、残念ながら寅年の年
にしか御開帳してもらえないので簡単には見られません。
どんな具合なのか心配ですが、残念ながら寅年の年



神社とお寺が一緒になっているので境内は大変広くて、毘沙門堂の後ろには広大な墓地も有ります。
お寺としてはかなりの規模の立派さです。
お寺としてはかなりの規模の立派さです。
ここ満福寺は、1643年(寛永20年)頃、毘沙門堂の別当寺(べっとうじ)として創建されたお寺だそうです。
別当寺とは、神仏習合が許されていた江戸時代以前に、神社を管理する ために置かれた寺。
神前読経など神社の祭祀を仏式で行う僧を、別当といったのだそうです。
別当は神社の経営管理を行なったので、神社の境内にお寺も併設される例が多いそうです。
神前読経など神社の祭祀を仏式で行う僧を、別当といったのだそうです。
別当は神社の経営管理を行なったので、神社の境内にお寺も併設される例が多いそうです。

この近代的な本堂は平成4年(1992年)に再建されたもの。
本堂正面には真言宗の始祖、弘法大師(空海)像があります。昭和60年建立だそうです。

毘沙門堂の横に小さなお堂が2つ、並んでいました。
手前が百八体毘沙門堂、奥が子安観音堂です。
百八体毘沙門堂にはミニサイズの毘沙門像が108体、お祀りして有るそうです。
子安観音堂には千体の観音像が整然と並んでいるとか。いずれも寅年の御開帳日にしかお目にかかれません。
お堂の脇に、建築業者の方がお昼寝していたので、このお堂には御参りしませんでした

神社とお寺でずいぶん広い境内。晴天の昼休み、良い気分転換になりました。
御利益(ごりやく)。。
御利益(ごりやく)。。

金光山 満福寺 (真言宗)
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この記事へのコメント
Dさん コメントありがとうございます♪
ワタシも少し文章を省略しすぎたかなーと思っていた次第。捕捉させて頂きますネ。
藤原秀衡はDさんのおっしゃる通り、平泉で栄華を誇った奥州藤原氏の藤原秀衡です。
源頼朝とは対立し、それもあって源義経をかくまった人物。
毘沙門像は藤原秀衡が運慶につくらせ、平泉に鎮座していたそうです。
その後、仙台に有った北目城の主、粟野国定が北目に遷しました。
さらにそれを北目城を落とした伊達政宗が仙台城下に遷したのだそうです。
いろいろと変遷を経た神さまですネ
ワタシも少し文章を省略しすぎたかなーと思っていた次第。捕捉させて頂きますネ。
藤原秀衡はDさんのおっしゃる通り、平泉で栄華を誇った奥州藤原氏の藤原秀衡です。
源頼朝とは対立し、それもあって源義経をかくまった人物。
毘沙門像は藤原秀衡が運慶につくらせ、平泉に鎮座していたそうです。
その後、仙台に有った北目城の主、粟野国定が北目に遷しました。
さらにそれを北目城を落とした伊達政宗が仙台城下に遷したのだそうです。
いろいろと変遷を経た神さまですネ

2012/05/18(金) 08:37:56 | URL | ぱんだ(親) #-[ 編集]
この藤原秀衡って義経を匿った有名なひとですかね?
それとも同名の別人でしょうか。
作るのを命じたのは生前で、実際作られたのは死後ということなんですかね。
それとも同名の別人でしょうか。
作るのを命じたのは生前で、実際作られたのは死後ということなんですかね。
2012/05/18(金) 07:07:09 | URL | D #-[ 編集]
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